LOGIN「……へえ、そうなのか?」
取り巻きの男性の言葉にさして興味がないというように返事をした神楽《かぐら》 朝陽《あさひ》だったが、私はほんの一瞬だけ彼が眉を寄せたのを見逃さなかった。 でも、あの方いうのは……? いいえ! 今は、そんなことはどうだっていい。この場でハッキリさせなければならないのは、元カレの流のことに変わりない。 そもそも今の話が本当なのならば、私の婚約破棄は何のためだったというのか? 「でも! 流《ながれ》は貴方の女性関係が理由でクビになるから、私とは結婚できないって……!」 「冷静になって、よく考えてみろ。社員の解雇理由に、俺の個人的な女性関係が関わっているわけないだろう? おおかた、その彼氏の浮気相手に子供でも出来たってところじゃないのか?」 そんなことを平気そうな顔で言われて、体中の血液が沸騰するかと思った。 そりゃあ、他人事なのは仕方ない。 でも冗談とかではなく彼はそれを一つの可能性として、流の元婚約者である私に話してくるのだ。 まるで自分にとってはどうでもいい事だ、と言わんばかりに。 「一つだけ、きちんと説明しておくが……俺はビジネスにプライベートな事は持ち込まない主義だし、異性との問題を起こした覚えもない。しかも神楽グループは徹底した実力主義で、個々の能力に合わせた給与システムとなっている。もしその男が解雇されるというのなら、それは単なる本人の努力不足だろう」 「そんな……」 ずっと流は私に自分は一流企業のエリートだと話していた。結婚して二人で幸せな家庭を作ろうって言葉も、裏が疑うとなく信じて。 だから……… そこで私は、二人にとって大事な約束を忘れていたことを思い出した。 「そうよ! 二人で貯めてたはずの結婚資金、あれはどうなったの?」 「……はあ? そんなもん、俺が知るかよ」 べつに神楽《かぐら》 朝陽《あさひ》に聞いたわけではないのに、勝手にそんな不機嫌な返事をされても困る。 でもそんなことをいちいち気にしてられる状況ではなくて、私はバックの中からスマホを取り出して急いで指で操作する。 毎月五万という金額を流《ながれ》に渡していた、彼がきちんと貯めてくれると約束したから。 けれど一方的に婚約破棄された上、その事について一言も彼は話さなかったし……もちろんお金も返してもらってない。 私たちが付き合った期間はそれなりに長く、少なくとも私が渡した金額だけで数百万にはなっている筈なのに。 だけれど…… 『おかけになった電話番号は――――番号をお確かめになって――』 「……嘘?」 昨日の夜に別れたばかりなのに、元カレはすでにスマホを解約していた。彼の仕事先はここだし、アパートの場所だって知ってるから会おうと思えば見つけ出せるだろう。 それでも私からの連絡を避けるためだけに、スマホを解約されたことがとてもショックだった。 「おい? どうした、大丈夫か?」 「……ぶ、じゃない。大丈夫なわけがないじゃない。ねえ、どうして?」 スマホを持ったまま呆然としている私に、神楽 朝陽が声をかけてくるがそれもどこか遠くて。 ただ流に嘘をつかれて連絡さえ拒否されたという事実が、受け止めきれなかった。 だけど、悪い事は立て続けに続くもので…… 「本当だって! もう別れたんだ、鵜野宮《うのみや》さんもこれで俺の本気を分かってくれるだろ?」 「ふふふ、それはどうかしらね?」 社員通路からロビーへと若い二人の男女が歩いてくる。その声には嫌という程、聞き覚えがあって…… 「なが、れ……?」「俺は先に中に入って父さん達に伝えてくる、心の準備が出来てから二人は来ればいい」「えっ……ありがとう、お兄ちゃん!」 自宅に着くとすぐ両親に挨拶するのかと思っていたが、兄が気を利かせてくれたので少しだけ気持ちを落ち着ける時間が取れた。朝陽《あさひ》さんも兄が迎えに来たことで緊張していたのか、今はホッとしている様にも見えて。 まあ、これからが本番なのでなおさら気を引き締めなくてはいけないのだけど。あまり待たせるわけにもいかないので、もう一度だけ大きく深呼吸をすると気合を入れて玄関のドアを開けた。「おかえり鈴凪《すずな》、あんまり遅いから何度こっちからドアを開けようと思ったか」 どうやら待ちきれなくて扉の前でソワソワと待っていたらしい、母らしいと言えばそうなのだけど。かと思えば父の姿は全く見えないので、きっと奥の部屋で兄と待機しているのだろう。そう考えると余計に緊張してくるが、まず母に朝陽さんを紹介しなくては。「もう、そういうとこ変わらないんだから。でね……この人が電話でも話した私の恋人の神楽《かぐら》さんよ、ちょっと信じられないかも知れないけれど」「神楽 朝陽です。この度は突然の結婚報告と挨拶になりましたが、どうぞよろしくお願いします」 少し背の低い母に目線を合わせてから丁寧な礼をして、もう一度しっかり顔を合わせて柔らかく微笑んでみせる。緊張なんて欠片も感じさせない挨拶をする彼は、やっぱりこういう場面にこそ強いのだろう。「まあ、本当にイケメンなのね! 鈴凪から聞いてはいたけど正直なところ半信半疑だったのよ、しかも仕事も出来て優しいスパダリなんだって冗談だと思うでしょう?」 あの時の電話でそこまで言ったかな? と思ったが、ここでその発言を否定すれば後々面倒な事になりかねないので黙っていると。ジトっとした目で朝陽さんに見られて、ちょっと焦る。「お前さぁ、こういう時にハードルをバカ高くしてどうするんだよ?」「……嘘はついてませんよ、朝陽さんはイケメンで有能なんですから」 ハードルを上げるとかそんなつもりはなかったんですけどね、電話でも本当のことしか話していなかったし。そもそも朝陽さんが私には勿体無いほどの素敵な男性だってことは、誰が見てもすぐに分かることだから。
「……結構緊張するもんだな、結婚の挨拶ってのは。仕事柄、プレッシャーには強い方だと思っていたんだが」「仕事と両親との顔合わせは全然違うと思いますけど、まあそれも朝陽《あさひ》さんらしい考え方ですよね」 冗談じゃなく朝陽さんはかなり緊張しているようで、私の揶揄いにもいつものような反撃する余裕がないらしい。私の父は彼のお父さんのような厳格な人ではないし、母もかなりマイペースなのでいつも通りの朝陽さんで大丈夫だと思うのだけど。 でもそうやって緊張するほど真剣に、私の両親と向き合おうとしてくれてるのは嬉しい。 最寄りの駅まで着いて実家までは徒歩数分の距離だから、このまま二人で家まで歩いて行こうとすると何処からか私の名前を呼ぶ声がする。しかもその声には、とっても聞き覚えがあって……「鈴凪《すずな》! 鈴凪、俺だよ! ……ああ、良かった。迎えに来たのに、すれ違ったらどうしようかと」「え、お兄ちゃん? わざわざ迎えに来たの、家はすぐそこだっていうのに」 まさかこの人が駅に迎えに来るなんて思っていなくて、急な兄の登場に朝陽さんも戸惑っているかもしれない。そう思って隣に立つ彼を見上げると……「鈴凪さんのお兄さんですか? 初めまして、私は彼女と真剣にお付き合いをさせて頂いている神楽《かぐら》 朝陽といいます」「……ああ、初めまして。俺は鈴凪の兄、雨宮《あまみや》 響《ひびき》だ。親父たちも待ってる、家まで案内するからついて来てくれ」 さっきまで緊張しているとか言ってたはずなのに、爽やかな笑みを浮かべて挨拶をする朝陽さんはさすがだと思う。きっと女性ならイチコロの極上の笑みに胡散臭そうな視線を向けた兄は、名前だけの自己紹介をしてさっさと歩き出してしまった。 昔から兄は私には甘くて過保護だったから、すぐに歓迎してくれるとは思ってなかったけれど。思い出してみれば流との婚約が決まった時も、兄だけは最後まで納得してない顔をしてたっけ?「大丈夫ですよ、兄は私が男性を連れてくるといつも不機嫌になりますから」「……そうなのか?」 それが恋人ならともかく学生時代の友人でさえ、家につれて来ればあからさまに警戒していた暮らしなのだから。今日は結婚したい相手を連れてくると話していたから、朝陽さんには申し訳ないけれど兄のこの反応も仕方ないと思えた。 すぐに実家の玄関が見え、朝陽さん
「……あれ、おかしいな? 朝陽《あさひ》さん、さっきまでそこにいたはずなのに」 私の実家に挨拶に行く準備も出来たし、そろそろ駅に向かうためにマンションを出なくてはと思ったが肝心の朝陽さんの姿が見えなくなっている。確かに数分前までは、そこのソファーに座って書類の束と睨めっこしていたのだけど。 新幹線の出発時間ギリギリになるのは困るので、朝陽さんを探しにうろうろしていると彼の部屋から話し声が聞こえてきて。「ああ……そうだ、今日の……全部、お前たちに任せるから……いいか、しっかり頼んだぞ」「……あの、朝陽さん? そろそろ家を出ないと、予約した新幹線に間に合わなくなっちゃいますよ?」 盗み聞きするのも申し訳ないと思い、扉をノックしてそのまま声をかける。最近は部屋の中まで入ることが増えたけれど、今回は通話の邪魔にならないようドアは開けなかった。「ああ、そうだな。すぐに行くからタクシーを呼んで玄関で待っててくれるか?」「分かりました、そうしますね」 何かあったのだろうか、多分さっきの雰囲気から大事な話だった気がして。でも朝陽さんは私には聞かれたくなさそうだったから、すぐに部屋から離れたのだけど。 休日とはいえ朝陽さんに仕事のことなどで着信がある事は珍しくない、彼の立場上それは仕方のない事だから。でも今日に限って……という気持ちもあって何も言えなかったけど、彼は無理をしてないかと心配になる。 こういう時、自分が朝陽さんの力になったり手助け出来る事があまり無いので凄くもどかしいの。「すまない、少し待たせたな! とりあえず、急いで駅に向かおう」 数分してから朝陽さんがちょっと慌てたように玄関へとやって来たけど、何となく浮かない表情をしてる様に感じて。だから余計なお世話だと分かっているのに、つい聞いてしまったのだ。「あの、さっきの電話はもう大丈夫なんですか?」「ああ、それはもう全部部下に任せてる。今日は俺たちにとって大事な日だから、鈴凪《すずな》はそのことだけ考えていてくれればいい」 朝陽さんの仕事に私が口出しをする事は出来ないから、そう言われてしまうとこれ以上は何も聞けなくて。もちろん彼が信用している人達なのだから、きっと大丈夫なのでしょうけど。 その後の新幹線での移動中は朝陽さんはいつもと変わらない様子で、どうやら私の杞憂だったのかもしれない。それ
『その相手は、そっちで出会った人なのか? 流《ながれ》君ではないのなら、私たちとは面識のない男性なんだろう?』 驚いて言葉の出なくなった母の代わりに、今度は父が電話越しに質問をしてきて。きっと今のお母さんよりは冷静なのだろうけれど、いつもより父の声が上擦っているのが分かる。 こんな急な話を直ぐに信じろと言っても無理があるし、二人が戸惑ったり疑ってしまうのも仕方のないことで。でもお互いの家族にちゃんと話して結婚を認められたい、朝陽《あさひ》さんはそう言ってくれたし私も同じ気持ちだから。「うん、その人には流から一方的に婚約破棄された時からお世話になっていて。想い合えたのも、つい最近の事なんだけれど……」『なぜそんなに結婚を急ぐ必要がある? 鈴凪《すずな》はまだ若いんだから、もっとお互いの事を理解し合うため時間をかけるべきだと私たちは思うんだが』 お父さんはこの結婚に反対するつもりでそう言ってるのではないと分かってる、ただ私の事を心配してくれているだけで。婚約破棄されて間も無い私が焦って、誰でも良いから結婚しようとしてるのでは無いかと考えたのかもしれない。 もちろん私はそんなつもりはないし、朝陽さんが相手だからこそプロポーズに応える気になったのだけど。それがこの電話越しの私の言葉では、ちゃんと両親に伝わらないのがもどかしい。『そうよ、お母さんもお父さんに賛成だわ。付き合ったばかりで鈴凪もその男性も、お互いの悪い部分が見えてないだけかも知れないでしょう? だから、もう少し……』 母も父と同じ様な考えらしく、私の結婚について先延ばしにしたいようで。でも結婚式の日付も決まっていて式場も手配済みなのだから、はい分かりましたと引き下がれない。 それに私自身が朝陽さんの言っていた彼の【愛され花嫁】に、早くなりたい気持ちでいっぱいなんだもの。だから、つい……「我儘を言ってるのは分かってるわ、でも私は彼との未来しか考えられないの! 出会ってからの時間なんて関係ない、そう思えるくらい朝陽さんしか見えないんだから」 こんな風に強く自分の意見を言う事は珍しかった。私はわりとはっきりとした性格ではあるけれど、何だかんだで周りに合わせる方がおおかったし。両親から言われたことも、素直に聞く方だったので驚かせてしまったかも知れない。 そう考えて申しわかない気持ちになっ
「……もしもしお母さん、鈴凪《すずな》だけど。今からちょっと大事な話をするんだけど、驚かないで聞いてね?」 きっと実家の母も朝ごはんを済ませて少し落ち着いた頃のはず、土日はパートの休みだと聞いているのでゆっくり話せるだろうと思って電話を掛けたのだけど。 もう子供が二人とも巣立ったのもあってか、電話口の母の声はまだ寝ぼけているようだった。いつも早起きして朝食を作っている人だったが、今はわりとマイペースな生活をしてるのかもしれない。『もう、何を驚けっていうの? 流《ながれ》君との婚約破棄を聞いたばかりなのよ、それ以上のことなんてそうそう無いでしょうに』「そう、なんだけど……ちょっと、色々あってね」 朝陽《あさひ》さんから『結婚の挨拶をしたいので連絡して欲しい』とは言われたものの、今回のことを母にどう話せば良いのかが分からなくて。婚約破棄をしたばかりなのに、今度は結婚式の日取りまで決まっているのだから。 急にこんな話をしてしまったら、いくら私の母でも吃驚《びっくり》しないわけないだろうから。どうしようかと迷っているうちに母が、大事な話があるらしいわよ? と父まで近くに呼んでしまったから、もう覚悟を決めるしかなくなって。「……そのね、もうすぐ結婚式を挙げる予定なんだけど」『へえ、誰が?』 やっぱりそうなるよね、婚約破棄された私の結婚式だと思う訳ない。もともと契約で結婚式を行なう予定だったので、それまでの日数もギリギリだから。 それでも今日こそ両親に話しておかなければ、それこそ色々間に合わなくなる可能性が……朝陽さんからの催促も凄いし、必死で電話口の母を相手にその話を続ける。「うん……だから、私が」『流君と?』 ああ、元カレの流とヨリを戻したのかと勘違いされてしまったようで。私は母に流からどんな事をされて別れたかまでは話していなかったので、そう考えたのだろうけれど。両親と会う時に流は必ず【良い恋人】を演じていたから、きっとあんな男だったなんて思いもしないだろう。 もしかしたら母は彼とヨリを戻して欲しかったのかもしれないと考えたが、それはもう不可能なので素直に本当のことを話した。これから私が一緒に未来を歩んでいく人を、ちゃんと家族に紹介したいと思ったから。「ううん、彼じゃなくて別の男性と」『…………』 しばらくの間、父も母も無言になってしまっ
「あの、今度は朝陽《あさひ》さんのご家族について教えてもらえませんか? 私も貴方の事を色々と知っていた方が、次に会う時のためになると思いますし」「……なるほど? それは父親や母親に会う時のためだけってわけじゃないよな、ちょっとくらい鈴凪《すずな》も俺自身に興味を持ってはくれてるんだろう?」 その聞き方は狡いですよ、違うとか言えるわけないじゃないですか! そりゃあ朝陽さんについて色々知りたいに決まってるのに、わざわざそれを私の口から言わせようとするんだから。 二人の関係が変わって朝陽さんは自分の感情をそのままぶつけるようになったのに、今度は私が恥ずかしくて素直に言葉に出来なくなってるの。「……そうですけど、悪いですか?」「そんなわけない、嬉しいに決まってるだろ。そうだな……ちょっとここで待っててくれ」 朝陽さんはそういうとリビングに私を残して、自室へと向かっていった。数分後に戻ってきた彼の手には、少し大きめの写真立てが持たれていて。もしかしてわざわざ取ってきてくれたのだろうか?「まあ、これはまだ俺が学生の頃の写真なんだが。さすがにここ数年は家族全員で写真を撮ることもなかったから、って何をニヤついてるんだ?」「いいえ、学生時代の朝陽さんが見れるのが嬉しくて。意外と可愛かったんですね、もともと顔は整ってるから当然といえば当然なんでしょうけど」 正直、今の朝陽さんの面影はあるものの写っているのはどう見ても美少年。つい写真と朝陽さんを交互に見比べてしまったほどには、雰囲気が違っていたから。「……俺は母親似なんでな、この頃は結構この顔がコンプレックスだったんだぞ?」「そうなんですか、確かに朝陽さんのお母さんはとても綺麗な方ですね。お父さんの方は、今とあまり変わらない気がしますが」 朝陽さんの隣で椅子に腰掛けているのが彼のお母さんなのだろう。美人なのだがどこか儚げな雰囲気があって、後ろに立って厳しい表情をしている彼のお父さんとは真逆な感じがした。「ああ、見た目も中身も今と大差ないと思う。子供の頃の俺は母親にべったりだったから、この人が病気で入退院を繰り返すようになってから父親との付き合い方に随分悩んだ記憶があるし」「朝陽さんが、ですか? じゃあ……」 そうして夜遅くまで朝陽さん自身のこと、ご両親についての話をたくさん聞いて。知らなかった彼のことを色







